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天皇制の意味・・・キリスト教徒の視点から

 今日のエントリーは私のキリスト教徒としての信仰告白みたいもので、この延長線上として主にカトリック教徒に向けて書いたものです。 故に、キリスト教と関係の無い方、キリスト教に無関心な方には退屈な内容を含んでいる可能性があることを予めお断わりしておきます。



 紀子さまのご懐妊を受けて一旦沈静化した感のある皇室典範改変議論であるが、色んな人が色んな立場で色んな事を言っていて、それぞれに対して、当然私個人の思想や価値観と照らし合わせて、納得が行ったり、反対に「何じゃ?これ」と首を傾げるもの、まぁそれぞれにそれぞれ意見があったりはするのだが……何が何でも天皇制を拒否し天皇制崩壊という結果さえ成就できれば良いと考えているアナーキストの意見と、何が何でも天皇制を護持しさえすれば良いと論理もへったくれも無い国粋主義者または狂信者、この二者の意見はそもそも取り合う必要すら感じないのは当然であるが……。
 一応先に私の考えを表明しておくと、基本的に天皇制は必要と考えている。 ただ、では何故天皇制を是とするのか?という問いに対して、他人を説得する説明原理に於いてはおろか、自分の中の自分に対する正当性すら、なんかイマイチすっきり説明付けというか理由付けが出来ていない感じがずっとしていた。
 つまり感覚的というか直感的に「無くすべきではない」という感覚は朧にあるものの、それが具体的言葉となってくれない(説明原理としてしっかり言語化されていない)という事である。

 例えば、男系継承の正当性を説明するのに俄(にわか)に脚光を浴びた「Y染色体」を論拠にした主張であるが、確かに男系継承を永年月続けてきた事の脈絡性を科学的に記述すれば「Y染色体」うんぬんという話になるのだろう、それは分かる。 しかし、「Y染色体」うんぬんの事を過去の天皇制を男系継承と決めた当時の人達が知っていた筈など当然なく、つまり、その選択は(その当時の社会情勢や社会常識、価値観などの影響は当然あるが、それらは普遍的なものではあり得ないので)極端に言えば「たまたま」でしかないのである。 今まで続いてきた伝統の中に科学的に一筋通っているという説明以上ではないという事。
 私は伝統を軽んじてはいけないと考える者であるから、上記の言説は、私は否定しないが、伝統を軽んじることに何の痛痒も感じない者達にその根幹にある「たまたま性」を突かれれば反論に窮してしまうことは目に見えている。

 そもそも私はカトリック信者であるので(カトリックに限らずキリスト教徒全般的に多く見られる傾向である)[ 積極的天皇制否定論者ではないが「特に必要性を感じない」のを理由とする消極的天皇制否定論者 ]で元々あった(*1)。 年齢を負うに従って、何となく、感覚的な次元ではあるが、日本の社会が天皇を必要とするムードというのか心性と言うか……にシンパシー(共感)を感じる心が自分にも在ることに気付いていった。 論理で処理する限り、キリスト教と天皇制支持というのは矛盾するのだが、メンタリティーの次元で「キリスト教を信仰すること」と「天皇に尊崇の念を抱くこと」との間に妙にというか不思議と共鳴するものを感じ、この「感じ」は日に日に確信的に強くなってきていた。  ここで先の自問自答に繋がるのである。

 事は、一つのキーワードが想起されたことであっさり解決してしまった。 これが今日のエントリーの本題である。

 それは「天皇は日本のPopeである」だ。

 Popeとは、法王、教皇と日本語訳される(*2)。 我々カトリック教徒に於いては「パパさま」と親しみを尊敬の念と共に込めて呼ぶのが習いとなっている(あくまで通称であるが)。
 何の断わりもなくPopeと言えばローマ教皇を指すというのが欧米圏に於いての常識ではあるが、本来は特定宗教を代表するものと云うよりもっと広くもっと普遍的な、人の中にある「大いなるものを畏敬するこころ」のまとめ役というか象徴的存在を概念化したものである。
 実際、その歴史を見てみれば過去にはローマ教皇も実質的には欧州諸国の一国の王として振る舞っていた時期もあるし、建前上は政治的立場にないとしながらも政治的に強い影響力を保持したり、各諸国列王逹の多くもローマ教皇の権威を政治的に利用する事も多かった。 それが紆余曲折を経て徐々に「脱政治化」して行き、これが決定的になったのは政治の近代化(*3)である。 これ以降は政治的実権を握ることは殆ど無くなった。 これは私見なのかも知れないが、政治的実権から離れることで、信仰、情緒の面に於いての象徴的求心力は逆に強まったと言える。 ローマ教皇が俗世的しがらみから解放される事で、民衆が気持ちを託し、心性を投影することを邪心無く、心おきなく出来る素地が整ったという言い方が適切であるようにも思われる。

 細かい歴史学的検証はさて置いて、大きく歴史の流れを捉えてみれば、日本の天皇が辿った歴史と非常に似ていると思うのは私だけであろうか? このローマ教皇が辿った歴史的文脈を相似形として天皇制にも適用してみると、戦後に憲法で「象徴天皇」とされた意味合いも明瞭になって来はしないだろうか?
 誤解を防止するために断わっておくと、いま私が云々しようとしているのは、戦後憲法制定当時にGHQ並びにアメリカ合衆国当事者にどういう意図、目論見があったのかという話は本質的に無関係である。 彼ら、またはその当時の憲法制定に関わった日本側当事者も含めて、どういう意図、目論見でこの憲法を作ったのであるかではなく、「天皇はPopeである」という観点から再解釈してみる事で、そこに隠れている日本人の「何故だか否定できない心性」(*4)に光を当てれるのではないだろうかと考えて論証しているのである。

 この事に気付けば、「キリスト者であること」と「天皇に尊崇の念を感じること」は矛盾するどころか反対に、キリスト者としてローマ教皇を尊崇しながら天皇制を否定することの方が自己欺瞞的であると気付いたのである。
 この事は日本の居るキリスト者、特にカトリック教徒一般に投げ掛け、深く考えて欲しい論点である。 ローマ教皇をへとも思っていないプロテスタントの一部なら兎も角、カトリック教徒でありながら天皇制を否定するのは自己矛盾であり、それを直視せずに居るのは自己欺瞞であるので、支持しないまでも許容は出来ないとおかしいと思われないか?と。

 以上の点に気付く以前からだが、天皇のことを「Emperor」と英訳されている事に凄く違和感を感じていた。 ご承知の通り「Emperor=皇帝」の意味であり、これに匹敵する専制君主は中国の歴代皇帝と大ローマ帝国の皇帝を代表格としてユーラシア大陸にその時代ごとに存在したものであって、過去の天皇が政治的実権を握っていた時代ですら、一部を除いて皇帝と呼ぶには全然相応しくない緩やかな君主であったに過ぎないからだ。
 そこにもってきて、上記に気付いた今となってはこの「Emperor」は誤訳(*5)であると、そして正しくは「Pope」なんだと確信されるようになった。 実際、試しに何人かの身近に居るキリスト教国の外国人の知人に「天皇は日本のPopeである」と説明したら、Popeの何たるかを理解してる素地を持ち合わせている彼らには、あっけないくらいに「なるほど。日本人にとっての天皇とは何なのか凄く分かった気がする。」と理解された。
 この私の考えに賛同頂ける方は是非、身近な外国人に「天皇は日本のPopeである」という説明を試みていって下さい。
 上記について:その後、非キリスト者、中でも非キリスト教圏である日本人に「天皇≒Pope」とキリスト教圏の人達が言われると、下手をすると喧嘩になる可能性もあると気付きました。 ですので、言うのは個人の責任で行なって頂いて結構なのですが、その際には、これはあくまでアナロジー(比喩)である事が相手に伝わる言い方をする事をお忘れなく、と注意書きを補記しておきます。(2006/02/23 追記)


 また反対にキリスト教徒ではない一般的な日本人に向けては、上記の「天皇≒Pope」説を受けて考えみて頂くと、今までずっと抱き続けてきた(また、これからも抱き続けていくであろう)「熱狂的でも狂信的でもない、または服従対象的では全くない、もっとずっと穩やかで緩やかな、がしかし、確信的で真摯な尊崇の念」この「捉え所があるようでない、ないようで厳然と存在する感覚(または感情)」は、実は天皇はEmperorではなくPopeである故なのだと説明されれば納得されませんか?と問うてみたい。

 今日のエントリーにとっては本題ではないのだが、話題の内容から全然触れないわけにもいかないと思うので軽くだけ触れておきます……
 バチカンに於いて、教皇も含めて聖職者は男性に限ると明確に謳われている。 教会外部からだけでなく教会内部にも男女平等を理由に、これを廃止するよう主張する者が少なからず居るのは今更云うまでもない事であるが、昨年4月新たに教皇に就任したベネディクト16世は改めてこの意見を毅然と退けた。 その理由は一言で云えば「伝統」である。
 伝統というのは、殊に「こころの問題」に於いては実に重いのだとだけ今は言っておく(これに対する「なぜ」を書き出すと膨大になるので、今は置いておく)。 論理の世界のそれ(伝統)が、事と次第によれば改変が寧ろ善である事が少なくないのとは全く正反対な世界、それが感情、情緒の世界である(*6)。


  1. キリスト教徒、の中でも特にプロテスタントには、かなり強行に天皇制を否定しようと政治運動家ばりにデモなど示威行動を積極的に行なう一群は存在する。 又、ここ最近はカトリックに於いても、教区が率先して政治的動きを推奨する傾向を出してきており、憂慮すべき事態だと個人的には思っています。
  2. カトリック教会では公式には「教皇」で統一するよう各方面に促しているが未だに混乱、混用状態である。
    参考:Wikipedia「ローマ教皇」の項目
  3. 国民国家・民主主義・資本主義・合理主義の各要件が分かちがたく関連して醸成されたものである。
    参考:Wikipedia「近代化」の項目
  4. 積極的に天皇制を支持、肯定する人はそんなに多くない筈で、ところが「否定できるか?」と差し迫られると何故だか凄く強い抵抗感を感じてしまうというのが多数派の心性だろう。 つまり論理による明確な支持なのではなく、或る種の宗教心に似た感情、情緒の次元の話である事、これこそが「気持ちを託し、心性を投影する」象徴的存在である証拠だと私は考えている。
  5. 天皇を専制君主だと印象付け、これを理由に「近代国家にあるまじきもの」と論陣を張りたい勢力の政治的意図が働いた誤訳である、とまで考えるのは裏読みのし過ぎであろうか。
  6. 「合理的」と言うと通常は論理の世界の産物だとするのが一般の認識だろう。 ところが実は、感情、情緒の世界には「感情、情緒の合理性」というのが在り、論理的合理性とは別の合理性が存在するのである。 一例を挙げると「家族は同じ屋根の下に一緒に暮らすのが望ましい」と感じるのは感情的合理性の所産である(論理的説明付けも出来るが本質は論理によって支えられているものではない)。 詳しくは追々述べていく予定である。

at 15:32, 白い月の鏡, 宗教

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