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噂は耳にしていたけど、、、

こういうのをビジネスにしてる輩が居る風評は耳にしていたけども、こう公然とやられるとねぇ、、、どうなん?って感じ。

ソーシャルコントロール
http://www.sby-prom.com/mk/smo/
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at 00:30, 白い月の鏡, 雑感

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本家サイト構築し直しちう

書きたいこと、書かなくてはいけないこと、はいっぱい頭の中にあるのだけど、元来無精者なので放置したままになっていた本家サイトをWordPressにて再構築中なのですが、Perlは自分でそこそこのプログラムを組める程度に理解しているので、Perlより後発の言語であるPHPはPerlの良いとこ取りをしているので大筋どういう処理をしているか分かる。 けども、これが逆に徒となる部分もあって(関数の定義の仕方はJavaScript的など)やりたい事を実現するのに案外と骨が折れる・・・Perl的発想で記述するとページが真っ白けになって、リファレンスをその都度調べ直してみないといけない、など・・・。
閲覧しに来る人が読みやすいように、と考えないなら適当に作って記事をぶち込めば良いだけなのだけど、、、。
ってことで、ぼちぼちやっていってますんで、長い目でみてやって下さいm(__)m
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at 17:52, 白い月の鏡, お知らせ

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「色々な考えがある」と知たり顔で言ってしまう人達

 書いてからかなり時間が経つが、前エントリー【「色々なものの見方がある」って正しいの?】に頂いたhirovisさんからのコメントに端を発して、改めて「この記事で言いたかったことは何だったんだろう?」と考えてみて、或る意味言い得ていなかった(この意味で言葉足らず)点を再認識したので書くです。
 先に断わっておくと、(全回のエントリーでも断わったので繰り返しになるが、書いてあることを読み飛ばすのか誤解する人が居るので再度)「色々なものの見方がある」という事実自体に批判を加えているのではないし、この事実を事実認識として表明する場合は、そもそも問題としていない。


 まず気付いたのは、、、「究極的には人と人は分かり合えっこない」という認識が僕にはあるという事。 こういう絶望を背負って生きているのが人間なのだ、という認識が基本的にある。
 これは、僕個人の人生観であると共に、カウンセラーとして接してきた人達の多くも、この事実に気付いた事から端を発して「生きるに難しい人生」とどう付き合っていけばよいのかが重いテーマとしてのし掛かってきた人達であった事も無関係ではない。
 この絶望感は如何ともし難く、壮絶に深い溝である。 勢い「ないこと」にして「見て見ぬフリ」をして生きていければ幸せなのかも知れない(大概の人はそうしているように思う)が、残念ながら僕には見えているし、この事実を知っている。

 と同時に、「分かり合えるなんて、そんなものは幻想だ」とニヒリズムに走るのも、安直な嘘吐きだと知っている。 「分かり合いたい」と希求する魂の欲求が、「究極的には分かり合えっこない」というのと同じくらい重大な事実として存在するからである。(「分かり合いたい」と希求する魂の声を封殺することで自分を病ましている人も多いと附記しておく)

 「究極的には分かり合えっこない」という厳然たる事実を分かり過ぎるくらいに分かっていて尚、分かり合おうとする、、、この永遠に終わらない戦いから逃げずに果敢に挑んでいく姿に「人間の美」があるのだと思っている。 これを「死に対峙する態度」と一緒だと言えば「人間の美」とまで表現するのが大袈裟でないと同意頂けるであろうか。
 「死ぬに決まっている」という意味では、勝負は端から決している。 如何なる努力をしても死からは逃れ得ぬ訳だから。 では、なぜ生きているのか? 生きようとするのか? 生きるのは何のためであるか? 端的な答えが出せる類の問題ではない事は判っている。 では、答えを出そうとする努力を放棄するのか? 否。 答えを出そうとする努力を放棄する事はイコール生きようとする事を放棄する事に他ならないから、答えの出ない答えを出そうと足掻くしか我々には選択肢は無いのである。

 だから腹が立つのである。 「色々な考えがある」と、さも知たり顔で言われると。
 知たり顔で安易にこの言葉を口にする人には、この「分かり合えっこない溝の深さ」のクリティカルさを、その絶望感の壮絶さを、たぶん知らんのだろうな、と感じる。 知らないから逆に気楽に「違う考えがある(分かり合えない溝が在る)」と口に出来るのだろうと。

 また、更に、その絶望感の大きさを知りたくないし認めたくない人達は、それを直視させられそうになると傷付けられるように感じ、逃れようとするのだろう。 実は、誰が傷付けたのでもなく最初からぽっかり口を開いている傷であるのに。
 見たくない人、認めたくない人が逃げるなら、それはそれでよい、逃げる自由はある。 ただ、その溝の深さが大したものではないように嘯くのは止めて頂きたい、と言いたいだけ。

at 07:33, 白い月の鏡, 心理読み物

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「色々なものの見方がある」って正しいの?

 よく議論が白熱した時、議論が白熱して収拾が付きにくくなった時によく使われる言葉と云えばよく使われる言葉ではありますが、これって何か場凌ぎというかお座なりというか誤魔化された感じがする、少なくとも私はそうでしたし、今もそうです。
 これが何故かというのがイマイチ上手く説明できなかったのです、今までは。

 お世話になっているjungnetというメーリングリストにて、Sさんという方が以下のような発言をされていた。 曰く
「いろいろな見方があるというのは一見正しいのだけれども、その実、いろいろな見方を並列に見通すような絶対的な見地から語られていて、実は単一の、上に立った見方になっている。〜中略〜 「いろいろな見方がある」ことを承認した上で、ある見地においてあることを事実と見なすことも、現実の生のなかではバランス感覚として必要だと感じます。別の言い方をすれば、「いろいろな見方がある」という主張は、もっとも公平なようでいて、実は局面次第では破壊的なだけであることもある。」
というもの。
 この言葉の冒頭部分(中略より前の部分)はフッサールのものだそうですが、実に上記の理由を巧く説明してくれています。 「なるほど! そういうことだったのね」と非常に合点がいった次第です。

 「色々な見方がある」ということ、これは事実で、この事実自体をなにも否定しようというのではありません。 ただ端的に言えば『「いろんなみかた」という観点』は存在しないということ。 いろんなみかたがあるというのは『「いろんな見方がある」という状況』描写に過ぎないということ。
 ただの状況描写でしかないのを見解の代わりに(つまり見解であるかの如くに)用いられると、胡麻化しと感じるのは寧ろ当然と言えます。

 「互いに認め合う」または「互いに尊重する」とは、互いに違いがあるなら、その違いをきっちりと確認し、その「違いっぷり」とでも言いましょうか、距離感とでも言いましょうか、これを味わって満足できる態度だと私は考えます。 違う処をきちっと味わうからこそ共通点、共鳴できるものが在った時の喜びも一入(ひとしお)になるのだと思います。


 「違うこと」と「違わないこと」の両方を包含でき許容できる、こういう関係がベストだと考える私であります。

 とは言いつつも、人間には感情、情緒というものがあり、あまりに美意識、感受性に隔たりがあり過ぎる人には、どうしようもない諦めとも絶望とも言える感慨を感じるしかない時はあります。
打ち明けて語りて 何か損をせしごとく思ひて 友とわかれぬ (石川啄木)
 大好きな詩です。

at 06:17, 白い月の鏡, 心理読み物

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「耳を澄ませば」を観て……遅まきながら

 日本テレビ系列、金曜ロードショーで「耳をすませば」(ジブリ制作)をやっていた。
 ジブリ系のアニメは大好きなのだが、この辞とは裏腹に映画館に観に行ったことはない。 「その内、すぐテレビでやるだろう」と思ってしまいがちなのがそうさせている亊は確か。

 まぁ、こういう言い訳は兎も角として、放映当時、あの悪く言えばベタな日本語訳の「カントリー・ロード」が「なんだかなぁ」と思えて、そこで先入観が出来てしまって観たいという気が全くなかった。 まぁ、宮崎駿が監督していないジブリ作品はB級が多いというのも先入観形成に一役かっていたのは間違いないが……。

 内容はとやかく言わない。 ネタばらしは無粋だというだけでなく、この映画は「感じる」映画だと思うので、観ないで分かろうとしてはいけないし分かったつもりになってもいけない。 で、自分がそうなっていたわけだが……(^^;)

 最後まで観て、その最後に、日本語訳の「カントリー・ロード」が流れる……すると不思議なことにベタに聞こえない、凄く共感できる、凄く心に染みる……それどころか、ここでOlivia Newton John のバージョンが掛かってると逆に興醒めだろうとすら思えた。

 蛇足だと思いながら一応専門家ぶった感想を入れておくと……女の子はこうやってアニムスに出遭い、感化され、インスパイアされて、アニマを自らのものとしていけるのだなぁ……という事です。

at 01:41, 白い月の鏡, 雑感

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天皇制の意味・・・キリスト教徒の視点から

 今日のエントリーは私のキリスト教徒としての信仰告白みたいもので、この延長線上として主にカトリック教徒に向けて書いたものです。 故に、キリスト教と関係の無い方、キリスト教に無関心な方には退屈な内容を含んでいる可能性があることを予めお断わりしておきます。



 紀子さまのご懐妊を受けて一旦沈静化した感のある皇室典範改変議論であるが、色んな人が色んな立場で色んな事を言っていて、それぞれに対して、当然私個人の思想や価値観と照らし合わせて、納得が行ったり、反対に「何じゃ?これ」と首を傾げるもの、まぁそれぞれにそれぞれ意見があったりはするのだが……何が何でも天皇制を拒否し天皇制崩壊という結果さえ成就できれば良いと考えているアナーキストの意見と、何が何でも天皇制を護持しさえすれば良いと論理もへったくれも無い国粋主義者または狂信者、この二者の意見はそもそも取り合う必要すら感じないのは当然であるが……。
 一応先に私の考えを表明しておくと、基本的に天皇制は必要と考えている。 ただ、では何故天皇制を是とするのか?という問いに対して、他人を説得する説明原理に於いてはおろか、自分の中の自分に対する正当性すら、なんかイマイチすっきり説明付けというか理由付けが出来ていない感じがずっとしていた。
 つまり感覚的というか直感的に「無くすべきではない」という感覚は朧にあるものの、それが具体的言葉となってくれない(説明原理としてしっかり言語化されていない)という事である。

 例えば、男系継承の正当性を説明するのに俄(にわか)に脚光を浴びた「Y染色体」を論拠にした主張であるが、確かに男系継承を永年月続けてきた事の脈絡性を科学的に記述すれば「Y染色体」うんぬんという話になるのだろう、それは分かる。 しかし、「Y染色体」うんぬんの事を過去の天皇制を男系継承と決めた当時の人達が知っていた筈など当然なく、つまり、その選択は(その当時の社会情勢や社会常識、価値観などの影響は当然あるが、それらは普遍的なものではあり得ないので)極端に言えば「たまたま」でしかないのである。 今まで続いてきた伝統の中に科学的に一筋通っているという説明以上ではないという事。
 私は伝統を軽んじてはいけないと考える者であるから、上記の言説は、私は否定しないが、伝統を軽んじることに何の痛痒も感じない者達にその根幹にある「たまたま性」を突かれれば反論に窮してしまうことは目に見えている。

 そもそも私はカトリック信者であるので(カトリックに限らずキリスト教徒全般的に多く見られる傾向である)[ 積極的天皇制否定論者ではないが「特に必要性を感じない」のを理由とする消極的天皇制否定論者 ]で元々あった(*1)。 年齢を負うに従って、何となく、感覚的な次元ではあるが、日本の社会が天皇を必要とするムードというのか心性と言うか……にシンパシー(共感)を感じる心が自分にも在ることに気付いていった。 論理で処理する限り、キリスト教と天皇制支持というのは矛盾するのだが、メンタリティーの次元で「キリスト教を信仰すること」と「天皇に尊崇の念を抱くこと」との間に妙にというか不思議と共鳴するものを感じ、この「感じ」は日に日に確信的に強くなってきていた。  ここで先の自問自答に繋がるのである。

 事は、一つのキーワードが想起されたことであっさり解決してしまった。 これが今日のエントリーの本題である。

 それは「天皇は日本のPopeである」だ。

 Popeとは、法王、教皇と日本語訳される(*2)。 我々カトリック教徒に於いては「パパさま」と親しみを尊敬の念と共に込めて呼ぶのが習いとなっている(あくまで通称であるが)。
 何の断わりもなくPopeと言えばローマ教皇を指すというのが欧米圏に於いての常識ではあるが、本来は特定宗教を代表するものと云うよりもっと広くもっと普遍的な、人の中にある「大いなるものを畏敬するこころ」のまとめ役というか象徴的存在を概念化したものである。
 実際、その歴史を見てみれば過去にはローマ教皇も実質的には欧州諸国の一国の王として振る舞っていた時期もあるし、建前上は政治的立場にないとしながらも政治的に強い影響力を保持したり、各諸国列王逹の多くもローマ教皇の権威を政治的に利用する事も多かった。 それが紆余曲折を経て徐々に「脱政治化」して行き、これが決定的になったのは政治の近代化(*3)である。 これ以降は政治的実権を握ることは殆ど無くなった。 これは私見なのかも知れないが、政治的実権から離れることで、信仰、情緒の面に於いての象徴的求心力は逆に強まったと言える。 ローマ教皇が俗世的しがらみから解放される事で、民衆が気持ちを託し、心性を投影することを邪心無く、心おきなく出来る素地が整ったという言い方が適切であるようにも思われる。

 細かい歴史学的検証はさて置いて、大きく歴史の流れを捉えてみれば、日本の天皇が辿った歴史と非常に似ていると思うのは私だけであろうか? このローマ教皇が辿った歴史的文脈を相似形として天皇制にも適用してみると、戦後に憲法で「象徴天皇」とされた意味合いも明瞭になって来はしないだろうか?
 誤解を防止するために断わっておくと、いま私が云々しようとしているのは、戦後憲法制定当時にGHQ並びにアメリカ合衆国当事者にどういう意図、目論見があったのかという話は本質的に無関係である。 彼ら、またはその当時の憲法制定に関わった日本側当事者も含めて、どういう意図、目論見でこの憲法を作ったのであるかではなく、「天皇はPopeである」という観点から再解釈してみる事で、そこに隠れている日本人の「何故だか否定できない心性」(*4)に光を当てれるのではないだろうかと考えて論証しているのである。

 この事に気付けば、「キリスト者であること」と「天皇に尊崇の念を感じること」は矛盾するどころか反対に、キリスト者としてローマ教皇を尊崇しながら天皇制を否定することの方が自己欺瞞的であると気付いたのである。
 この事は日本の居るキリスト者、特にカトリック教徒一般に投げ掛け、深く考えて欲しい論点である。 ローマ教皇をへとも思っていないプロテスタントの一部なら兎も角、カトリック教徒でありながら天皇制を否定するのは自己矛盾であり、それを直視せずに居るのは自己欺瞞であるので、支持しないまでも許容は出来ないとおかしいと思われないか?と。

 以上の点に気付く以前からだが、天皇のことを「Emperor」と英訳されている事に凄く違和感を感じていた。 ご承知の通り「Emperor=皇帝」の意味であり、これに匹敵する専制君主は中国の歴代皇帝と大ローマ帝国の皇帝を代表格としてユーラシア大陸にその時代ごとに存在したものであって、過去の天皇が政治的実権を握っていた時代ですら、一部を除いて皇帝と呼ぶには全然相応しくない緩やかな君主であったに過ぎないからだ。
 そこにもってきて、上記に気付いた今となってはこの「Emperor」は誤訳(*5)であると、そして正しくは「Pope」なんだと確信されるようになった。 実際、試しに何人かの身近に居るキリスト教国の外国人の知人に「天皇は日本のPopeである」と説明したら、Popeの何たるかを理解してる素地を持ち合わせている彼らには、あっけないくらいに「なるほど。日本人にとっての天皇とは何なのか凄く分かった気がする。」と理解された。
 この私の考えに賛同頂ける方は是非、身近な外国人に「天皇は日本のPopeである」という説明を試みていって下さい。
 上記について:その後、非キリスト者、中でも非キリスト教圏である日本人に「天皇≒Pope」とキリスト教圏の人達が言われると、下手をすると喧嘩になる可能性もあると気付きました。 ですので、言うのは個人の責任で行なって頂いて結構なのですが、その際には、これはあくまでアナロジー(比喩)である事が相手に伝わる言い方をする事をお忘れなく、と注意書きを補記しておきます。(2006/02/23 追記)


 また反対にキリスト教徒ではない一般的な日本人に向けては、上記の「天皇≒Pope」説を受けて考えみて頂くと、今までずっと抱き続けてきた(また、これからも抱き続けていくであろう)「熱狂的でも狂信的でもない、または服従対象的では全くない、もっとずっと穩やかで緩やかな、がしかし、確信的で真摯な尊崇の念」この「捉え所があるようでない、ないようで厳然と存在する感覚(または感情)」は、実は天皇はEmperorではなくPopeである故なのだと説明されれば納得されませんか?と問うてみたい。

 今日のエントリーにとっては本題ではないのだが、話題の内容から全然触れないわけにもいかないと思うので軽くだけ触れておきます……
 バチカンに於いて、教皇も含めて聖職者は男性に限ると明確に謳われている。 教会外部からだけでなく教会内部にも男女平等を理由に、これを廃止するよう主張する者が少なからず居るのは今更云うまでもない事であるが、昨年4月新たに教皇に就任したベネディクト16世は改めてこの意見を毅然と退けた。 その理由は一言で云えば「伝統」である。
 伝統というのは、殊に「こころの問題」に於いては実に重いのだとだけ今は言っておく(これに対する「なぜ」を書き出すと膨大になるので、今は置いておく)。 論理の世界のそれ(伝統)が、事と次第によれば改変が寧ろ善である事が少なくないのとは全く正反対な世界、それが感情、情緒の世界である(*6)。


  1. キリスト教徒、の中でも特にプロテスタントには、かなり強行に天皇制を否定しようと政治運動家ばりにデモなど示威行動を積極的に行なう一群は存在する。 又、ここ最近はカトリックに於いても、教区が率先して政治的動きを推奨する傾向を出してきており、憂慮すべき事態だと個人的には思っています。
  2. カトリック教会では公式には「教皇」で統一するよう各方面に促しているが未だに混乱、混用状態である。
    参考:Wikipedia「ローマ教皇」の項目
  3. 国民国家・民主主義・資本主義・合理主義の各要件が分かちがたく関連して醸成されたものである。
    参考:Wikipedia「近代化」の項目
  4. 積極的に天皇制を支持、肯定する人はそんなに多くない筈で、ところが「否定できるか?」と差し迫られると何故だか凄く強い抵抗感を感じてしまうというのが多数派の心性だろう。 つまり論理による明確な支持なのではなく、或る種の宗教心に似た感情、情緒の次元の話である事、これこそが「気持ちを託し、心性を投影する」象徴的存在である証拠だと私は考えている。
  5. 天皇を専制君主だと印象付け、これを理由に「近代国家にあるまじきもの」と論陣を張りたい勢力の政治的意図が働いた誤訳である、とまで考えるのは裏読みのし過ぎであろうか。
  6. 「合理的」と言うと通常は論理の世界の産物だとするのが一般の認識だろう。 ところが実は、感情、情緒の世界には「感情、情緒の合理性」というのが在り、論理的合理性とは別の合理性が存在するのである。 一例を挙げると「家族は同じ屋根の下に一緒に暮らすのが望ましい」と感じるのは感情的合理性の所産である(論理的説明付けも出来るが本質は論理によって支えられているものではない)。 詳しくは追々述べていく予定である。

at 15:32, 白い月の鏡, 宗教

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障害者に優しい社会とは? 優しいってどういうこと?

 前々回のエントリー「論点がズレる時・・・ユング心理学「タイプ論」の観点より」で取り上げた話題の当人の片一方であるMacskaさんのブログに於いて「障害についての意識調査というかクイズ」という題した以下のようなエントリーがアップされた。
 現実にあった話を元にした問題です。
 車椅子使用者を多数含む障害者の団体が列車で旅行に行くことになりました。ところが列車は普段のままでは車椅子のまま乗れるようになっていません。車椅子を使用する人が少人数であるときは、座席の一部だけ取り外して乗せることになっているのですが、これだけの団体が乗るためには一車両丸ごとほとんどの座席を取り外す必要があります。
……以下略(本体を参照してください)

 彼女のもう一つのブログである「macska dot org」も含めて表明されている各評論、意見、感想等から推測できる彼女の意見の一つは「ヒューマニスティックになろうとすればするほど、どんどんヒューマニズムの本質から遠ざかっていく悪魔の呪縛を我々は持っている」であろうと思う。(私の解釈なので違っていたら訂正を入れて下さい> macskaさん)
 私がこう思った根拠の一例が以下ですので、興味のある方は参照してみてください。 → " DV被害者支援を志す人はマツウラマムコ著「『二次被害』は終わらない」に絶望せよ"
(と書いたが、読まないと以下の論理展開がたぶん見えないので「必ず読んで下さい。」に変えます・・・2006/02/11追記)

 この彼女の問題意識というか感受性は私の立場からも非常に興味のある問題であるし、非常に共感する。
 ユング心理学の基本中の基本として、我々の心の奧底に脈々の息づいており、かつ逃げても逃げても逃げ切れない「エゴイスティックさ」「残虐さ」「傲慢さ」「猟奇的性質」を『元型』として持っているという事実(*1)、これを認める処からでしか「倫理」「正義」「道徳」は始まらないというのがある。(脱線になるが、この意味で「小学生女児が同級生を殺傷した事件」などに対する分析は正鵜を得ていないものばかりである。彼女は特殊な女児ではなく、子供に限らず全ての人間の中に、それがそのまま顕現してしまうと恐ろしい事になる猟奇性、残虐性が息づいているので、亊の真相は「あなたの問題」であり「私の問題」であるという問題意識の欠如、または真実を見つめたくない欺瞞性。)

 話が逸れ掛けたが本題に戻って……これらを予備知識した上で冒頭のmacskaさんのクイズに戻ってみると、軽々に迂闊な結論を下す事に非常に躊躇を覚えるだろうと思う。 また、いわゆる「安物のヒューマニスティックな議論」が「なぜ安物なのか」が分かると思う。

 彼女は同エントリーの最後を以下の言葉で締めくくっている
「もちろん、何か1つの正解があるという問題ではありません」
と。

 彼女はつまり、安易な善悪、安易な正邪、安易な解決策を提案して欲しいのではない。
 端的に言ってしまえば、読者それぞれがそれぞれに「自分の中の利己者」と「自分の中の利他者」との葛藤、「自分の中の善人」と「自分の中の悪人」の葛藤・・・これを感じ取り、確認し、知って欲しい、こう思っているのだと思う。

  1. 無論、これが元型の全てではない。 元型の一つの流脈として、こういう流れがあるという意味である。 因みに私は「元型」を「本能」とほぼ同義語だと考え、一般的に想定されている「本能」より遙かに広い概念として「本能」という言葉を使う。 なるべく混同されないよう、その都度注記するようには気を付けているが、この点を今後も留意頂けるとありがたい。

at 16:31, 白い月の鏡, 心理読み物

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オモロイPodcast見付けた!ビンゴ!・・・「モモ&YOU☆の声日記」

参加しているmixiの「iTunesコミュニティー」内で「面白いトーク系のポッドキャストの紹介」というトピックが立ち、ここの紹介されていたのを全部聴いてみて、どれも、夫々の方がお勧めしてくれるだけあって面白い! ので全てiTunesに登録したわけだが……

の中で特にお勧め! いや、ハッキリ言って「ツボにハマってしもた」のがこれ!
「モモ&YOU☆の声日記」


 プロフィールの詳細などは全然判らないのであくまで勝手に想像を膨らませるに、普通の大阪の女の子が学生時代からの友人とポッドキャストをやっている、こんな感じ。
 喋り、というか発声が結構しっかりしているので、元放送部だったとかの「単なるアマチュア」ではない気がするが、この辺も想像の域は出ない。

 以下、殆ど書き殴りに近い感想。

 何より先ず、ほんま彼女ら芸達者です。
 声優的に声色の使い分けが上手いし、言葉のメリハリの付け方がコントロールされているのに自然!(なのが驚嘆に値する)

 それに何より「マイク乗りがいい声」って言ってお分かりになるでしょうか?
 まぁ、平たく言えば「アナウンサー、声優向き」ちゅぅーことですな・・・
なので、伝えたいこと、伝わって欲しいことが、ポンポン小気味良いくらいに気持ちのエリアに(理屈のエリアをすっ飛ばして)入ってくるんで、嬉しいやら、楽しいやら……やら……やらです。

 始めてオセロの漫才に接した時にも似た「安心感」がある。 声の調子からは「海原やすよ・ともこ」を思い出させもするが……。

 何れにしても共通するのは、その年齢なりの「チャラけた処」や「いい加減な処」「内輪ノリ的な処」は「ちゃんと」持っている(これ大事! これが希薄な若者なんか気持ち悪くすらある)。
 でありながら、チャラけ切っていないというか、ふしだらじゃないというか、一番底の底、突き詰めた根本の処の「人間としての弁え」みたいなものを「ああ、この子ら、ちゃんと持ってやるわ」と感じる。(だからこそ、大胆にチャラけ切れるのだとも言える)

 ここが「ちゃんと在る」から、話の内容なんか極端な話「なんでもええ」ですわ。(あくまで極論やけど)

 「この安心感」があるから、話の内容が何であっても「ふん、ふん、、、ほぉ〜」っと共感を以て聴けてしまう(というより、知らず知らずの内に共感させられてしまっている、というのが一般人の感想かも)。

 だから、自分で自分の話に思い出し笑いで吹き出してしまったり、噛んでしまって内輪ウケで笑ろてもうたり(普通は聴き手にとれば顰蹙な筈なのだが)に、共に笑える(笑いに引き込まれる)のですぢゃ。

ってことでiTunes等に登録したい方は以下のリンクをクリックまたは直接iTunesのウインドウ上にドラッグ&ドロップです。
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at 11:55, 白い月の鏡, 日常

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論点がズレる時・・・ユング心理学「タイプ論」の観点より

少し前、この年初早々から「林道義のホームページ」「macska dot org」の二者間で激しい論争になっていた。 今は一段落した感があるので、却って落ち着いて検証できると思うので未読の方は両者をきちんとバランス良く読んでみて欲しい。
「生物学基盤論を唱えながらジェンダーフリー教育の弊害を叫ぶ矛盾」
「「生物学的根拠説」に立ちながら「ジェンダーフリー教育の弊害」を言うのは「矛盾」か」

 その持論、価値観、考え方等には、両氏それぞれに対して言いたいこと、批判したいことはあるのだが、今日はそれには触れない。

 上記のリンクから辿って両氏の言い分をキチンと読んだ人なら同感してくれるだろうが、両氏の間には、その論理の依拠する立場とか、価値観、美意識とか、世代によると思われる考え方の相違とか・・・勿論これのズレもあるのだが・・・こういったものの奧に、もっと究極的で致命的なズレが存在すると私は感じた。
 それはC・G・ユング「タイプ論」で言うところの「タイプの違い」である。
 タイプ論については、今後随時ここで説明や、それを更に自分なりに膨らませた自論など展開していきたいと思っているので、今回は詳述しないが、簡単にだけ説明しておくと、ユングは人間には生得的に備わった性質の違い(*1)があり、本質としてのそれは変わらない(*2)とし、まず「内向型←→外向型」に大別でき、これと組み合わさる基本タイプ(*3)として「感覚←→直観」「感情←→思考」という心理機能を設定する。 つまり実際には「外向感覚」「外向直観」「外向感情」「外向思考」「内向感覚」「内向直観」「内向感情」「内向思考」の8タイプに分類できるという主張が導き出せるのだが、ユングのタイプ論の重要なポイントは、こういった「タイプ分けが出来ること」ではない。 無論「タイプ分けが出来る」ということが前提になるので、これが無意味であるということではないが、夫々のタイプは上記に記した通り「互いに相反しつつ組になろうとする吸引力も併せ持った」(丁度磁石の性質を思い浮かべて貰えるとありがたい)組になっている。 つまり
「内向型←→外向型」の大別が先ずあり
「感覚←→直観」
「感情←→思考」  という組になっているという事だ。
「そして、その組の何れかが優勢機能となり、かたやは必ず劣等機能となる」という論点、ここがポイントである。
 簡単に言えば、論理思考が秀でた(後天的に洗練された)人は、そうしようという意図はなくとも感情機能が劣等になるという事である。

 で(やっと)本題に戻ると、林道義氏はご本人も著書等で書いている通りたぶん直観型優位である。 かたやmacska氏は、その文章運び、論理展開からして感覚型優位である。
 直観型は「考えるより先に答えが分かってしまう」的なところがあり、これが上手く機能したときは「天才的閃き」と称される才能を発揮することになる反面、プロセスをすっ飛ばしてしまう傾向を持つ。 これは、自分に取れば「答えはわかっている」ので先を急いでしまいがちになるのと、プロセスを重視する感覚型的行動様式が劣等機能だからである。[ 森を見て木を見ない傾向 ]  また、全く反対の一字一句にまで執拗に拘った態度を取る時もあるのだが、これは感覚型機能が劣等である故である。(*5)
 かたや感覚型はいま述べたようにプロセスを非常に重視し、言葉の定義などもかなり厳格に用いようとするが、劣等機能ではないので一字一句に拘りすぎて文意が見えなくなったり、本来言いたかったことを忘れて迷子になる事は、順序立てを乱されない限りない。 反面、順序立てて話を持って行こうとする傾向が強いが故に「なかなか結論に至らない」という印象を(特に反対の直観型には)与えがちである。 話の中途で遮られて返答を余儀なくされる時(つまり直観的に返答せざるを得ない時)は劣等機能である直観型が顔を出し「自分の本意とは懸け離れた(または、そう受け取られてしまう説明不足の)返答」をしてしまう場合が往々してある。[ 木を見て森を見ない傾向 ]  これの延長線上で、話の腰を折られて感情的になった時は、その場の思い付きで出鱈目な事を口にしてしまう場合があるのも、劣等な直観型ゆえである。

 何れのタイプ(今回は触れていない感情、思考も)も、感情的になった時は劣等な方が顔を出す。 これは、生得的に強い(本能に近いレベルに保持している)のは劣等な心理機能だからである(この点は次回以降に詳述していく)。

 お二方のどっちが正しいor正しくないは軽々に言うべきではないと考える。 少なくとも、その論旨、または主張したいこと、は両者共に一目を置くべきものを持っておいでだからだ。
 私が感じるには、両者の理想としている価値観などは本質的に大きな差異は無い。 それだけに、今回のようにタイプの違いで議論がまるで噛み合っていないのは非常に残念である。(つまり、今回の議論がまるで噛み合っていない本質的理由はタイプの違いに起因している、というのが私の見解であるということ)

 過去にも何度か書いたことだが、価値観や考え方、ものの見方による論争には歩み寄る余地があるが、タイプの違いによる論争は(それに気付かない限り)不毛になる。 この事は是非覚えておいて頂きたい。
 飜って、自分が不毛な論議をしているなぁ(または不毛な議論に巻き込まれている)と感じたら、この点を思い出して欲しい。 そうすれば議論が建設的になる可能性が出てくる。

  1. いわゆる性格が或程度遺伝することは既に遺伝学で証明されているので「生得的に性質の違いを持っていること」この事自体は既に立証されていると言える。 問題は、ではそれがC・G・ユングの主張する通りタイプ分けが出来るものであるかどうかであるが、これは多分に検証、議論の余地はある。
  2. 本性とは言っても、それがそのままストレートに表現されないよう意識によって工夫できる脳力を持っている人間に於いては、それの表現形態や表現手法は充分に按配できる。 であるが、表現形態、表現手法として変えれるとは言ってもやはり、その本性の影響から完全に免れ得る事はないのも事実で、この辺りについては追々論じていきたいと思っている。
  3. いわゆる概念型であるので、そのまま個々人に当て嵌めたりするのは間違いである。
  4. ここの点もちゃんとした説明無しには誤解を生むことは必定なのだが、後日に詳述していくので今は置いておく。
  5. 林道義氏の名誉のために補足しておくが、この劣等性にはご本人は気付いていると思われ、その証拠に氏のユング研究の各著書は、過度ではない適切な「言葉の定義の厳密性」「文意の示し方の厳密性」が徹頭徹尾著わされており、賞賛に値する。


タイプ論

at 12:59, 白い月の鏡, タイプ論

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ブログことはじめ

 遅ればせながらブログというものを始めてみることにした。
 というか、こういうテクノロジーがある事は随分以前から知っていて、自慢じゃないが(と言う時は大抵自慢だ)Perlを使ってのスクリプトはそこそこ組める。オブジェクト指向プログラミングの概念もアウトラインは理解してる。ので、自作のものもモジュール化して統合性のあるシステムを構築している(素人の言う「統合性」だからたかだか知れてはいるが。。。)。
 だから、このテクノロジーの正体(本当はも一個あるんだけど、、、)がMovableTypeと呼ばれるものである事も知っている。

 そうだ!(と思い出して突然話は脱線)
 「ブログ=MovableType」じゃないんだよ! みんな知っている?! いつの間にか、という間もない位にあっと言う間に「ブログ=広義のCGI技術を使ったページ自動生成システム。または、これを用いて作られたHP」という誤った定義が定着してしまった。
(HP=ホームページという用語も間違った意味で定着していると指摘したいのだが、言い出すとキリがないのでこれは置いておく)
 中には、というかこっちの理解をしている人が特に女性には多いように思うのだが、「ブログ=本文部分を書くだけで表示形式とかを自動で整えて表示してくれる便利な日記用HP」という呆れるくらいに自己都合で解釈した定義を正しい(いや「正しい」とか「正しくない」とか、どうでも良いんだろう、彼らに取れば)と信じて疑わない人すら結構居る。
 一応ちゃんと書いておくと、MovableTypeというのは コンテンツマネージメントシステム の一種で、Perlという名のプログラミング言語を使ったサイト自動生成をしてくれるシステム
(ほんとは「単に自動生成するだけでなく、、、」という説明が山ほどあるのだが、どうせ殆どの読者は読まないだろうし、隙のない正しい説明が披露できるほどの説明スキルを持ち合わせているわけでもないので割愛。参照 → e-words:Movable Type
で、これがHTMLタグを入れたりでページの体裁を整えるのに専門知識が希薄だと骨の折れるwwwページ作成なんかに労力を割かれたくなく、文章を書く(タイプする)のだけにひたすら専念したい「日記ページを作りたい人」のニーズとピッタリ一致した機能を持っていたというだけの話。 つまり「日記ページ用に作られたシステム」なのではなく「システムの持っている機能(の一部)が日記ページに最適だった」ということ。
 で、「面倒なタグとかの知識が一切無しにウェブページが作成できる」という点を、こういった技術的ハードルを前にウェブの世界にイマイチ入り込めなかったテクノペザント層を取り込める動機付けになる(ビジネスチャンスの拡大)と察知したISP(インターネット・サービス・プロバイダー)が「難しい知識無しにウェブページが作れますよ」「日記をウェブ上で公開してみませんか?」と「ブログ」という言葉を[ さも以前からそう呼ばれていたものであるかのように ]使って喧伝もんだから(これに反応した人がこぞって日記もしくはこれに近い「雑感」や「評論」「エッセイ」等を書いて公開するのに使い)あっと言う間にこのフォーマットが広がってしまったので、こういう誤解が定着してしまったのです。
 ただ(当初は誤彪であれ一般用語して定着してしまった)今となってはこれを誤彪だと言っても訂正はたぶん利かず、それに誤彪が広まっても致命的な何らかの不都合が生じる事象ではない事もあって、市民権を得てしまっているので、今は一般に倣って「ブログ」と言ってたりするのです。

 ただ、でも「違うもの」は「違うよ」と言っておきたかっただけです。 はい。
 時流に流されるのは、時として悪くないし、時には寧ろ良い場合さえあるが、「物事の由来」とか「本来の意味」とかを「知らなくてもよい」というのは怠惰さであると指摘しておきたいし、これがややもすれば、民主主義が健全に機能しなくなると言う意味でこの社会を生きにくい場所にしてしまう原因にもなり兼ねないと知っておいて欲しいのです。

  詳細は→wikiペディア「ブログ」,「ウェブログって? [はじめてのウェブログ]」「ウェブログ=蜘蛛の巣丸太が「サイバー日記」になった理由」「ウェブログを始めるな!」を参照されよ。

 当初MovableTypeを自前で設定&設置して始めようと思っていたのだけども、いざやろうと思うと結構面倒で挫折。 結局は「長いものには巻かれろ」式に、レンタルサーバー会社が用意したお手軽ブログで「日記調エッセイ」を書いているのであった、、、、、、。

at 07:53, 白い月の鏡, 日常

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